私の介護体験記

死と介護 まだ遠い世界のことだった

Blog

そよかぜニコニコ通信に連載した「私の介護体験」は終了!と告知したばかりですが、少しばかりの反響に調子に乗りまして、また続けたいと思います。テーマは「病院での死別」です。
総代会の議案に何度か書かれた「私の意思書」、そして「人生会議」をご存知ですか。それを念頭に置き、読んでいただけたらと思います。

20代前半の頃、父方の祖父母が相次いで亡くなりました。磐田市民病院が移転新築して間もない頃だったと思います。一度だけ病室に見舞いました。気楽に訪ねたのですが、肺がんを患った祖父は黄疸が出ていてやせ細り、腹だけが膨らんでいました。凄みのある容貌にかける言葉が見つかりません。
幼少期、軽トラックに乗せてもらい福田港に釣りに行ったことや、一緒にお風呂に入った記憶もあるにはあるけれど、フランクな会話を交わすような間柄ではなかったのです。
病室に従姉妹たちのお見舞いノートが置かれていました。励ましの言葉とともに、胸水を何㏄抜いたとか、病状の記録もあったように記憶しています。

「●時●分にウンチ」という排せつの記載が目につきました。水を飲みたそうにしたので、枕もとの水差しを口に含ませました。
そのとき、祖父がおもむろに体を起こそうとしました。
ポータブルトイレに向かっているので用を足したいのだと分かりました。慌てました。しんどそうな祖父を、どのように支えていいかわかりません。ちょっと挨拶くらいの気持ちでやってきて、まさかお尻をふく破目になるとは。

偶然、祖母も別の病気で入院していました。車いすの祖母を、祖父の個室につれてってやると「おじいさん頑張んなさいよ」と声をかけていました。気を利かしたのではなく、祖父と対面しているのが気まずかったのが本当のところです。これが父方の祖父と過ごした最後でした。自力で排せつしようとしたのを手伝えたことは良かったかなと思います。

祖母はその後しばらく元気に過ごし、ある朝いつものように畑に出かけて亡くなりました。百人一首を、読むのも、札をとるのも得意な祖母でした。

ここまで(2023年9月 ニコニコ通信Vol.5)

そして、アラサーとなった私が、母方の祖父母と同居を始め、そんなつもりじゃなかったのにどっぷりと介護につかるようになりました。睡眠不足ながら、団らんの時間があった日々に、突然転機が訪れました。祖母に悪性腫瘍が見つかったのです。
見つけたのは、祖母のお気に入りだったデイサービスでした。リハビリ職員がたまたま触知してしまったのです。

浜松医療センターに入院。腫瘍は子どものこぶし大まで増大しており、血管と癒着しているため手術が出来ないということまで家族には説明がありました。

「家族には…」つまり本人には、病名も余命も告知していなかったのです。
私自身、それほど深刻に受け止めていませんでした。一時帰宅ぐらいはできるんじゃないかと思っていました。母親や叔母たちが頻繁にお見舞いに行っていたので、自分はそのうちに行こうかなぐらいに思っていました。

そうして心の準備が全くないところに、病院から、危ないかもしれない、集まってもらった方がよいという連絡が入ったようで、それも今すぐという伝わり方ではなかったので、「仕事が終わったら向かう」という返事を返して、原付で向かっているところに「亡くなった」という結果を知らされました。

そのまま帰宅し、息をしない祖母と対面することになりました。
祖母の臨終に間に合ったのは、まだ10代だった末の弟だけでした。「看護師を呼んだのに誰も来なかった」というので、「一人だけで逝くよりも、お前だけでも見送る人がいたから喜んでると思うよ」と、声をかけてやりました。

「医師、看護師が見通しをちゃんと教えてくれていたら」と、やりきれない気持ちにさせられました。

テレビが大好きだったおばあちゃん、実は近眼ではっきり見えていなかったのです。昔かけていたメガネはどこへいったのやら。眼鏡を作ってあげたいなあと思っていた矢先にいなくなってしまい後悔が残りました。 
ここまで(2023年10月 ニコニコ通信Vol.6)

2024/8/31